はじめに
菅井健太と申します。北海道大学では、ロシア語やスラブ諸語の研究や教育に携わっています。今日は、ブルガリア本国以外に住んでいるブルガリア系マイノリティの人たち—特に今回はルーマニアに住んでいるブルガリア系マイノリティの人々—のことばや暮らし、そして彼らとの交流についてお話しします。
ブルガリアおよびブルガリア語について
ブルガリアは南東ヨーロッパのバルカン半島に位置しています。面積は日本のおよそ3分の1弱、人口は10年前の統計で720万人程度です。首都はソフィア、人口約120万人の小さな都市です。ブルガリアの民族構成は、ブルガリア人が約8割を占めます。その他にマイノリティとしてトルコ人やロマの人々が住んでいます。公用語はブルガリア語です。宗教としてはブルガリア正教が優勢です。
ブルガリア語はスラブ諸語の一言語です。ロシア語、ウクライナ語、ポーランド語、チェコ語などと同系統の言語です。スラブ語派南スラブ語群に分類され、セルビア語やクロアチア語とは特に近い関係にあります。キリル文字が使われています。話者人口はおよそ800万〜900万人と言われています。国内はもちろんのこと、実は国外にも一定数のブルガリア語話者が存在します。特に、ルーマニアやモルドバ、ウクライナに多いです。
こちらの言語地図では、ピンク色で示されているところが、ブルガリア語が話されている地域をあらわしています。ブルーで示されているところが、ルーマニア語が話されている地域です。ルーマニア語が話されている地域の南側あたりに、ピンク色のエリアが点在しています。つまりここにブルガリア系の住民が住んでいることが示されています。今回は、赤丸で示したブカレストというルーマニアの首都の周辺に住んでいるブルガリア系のマイノリティの人たちの言語に注目していきます。私が調査しているのは、ブカレストの東の郊外にあるブラネシュティという小さな村になります。
なぜブルガリア語方言研究をするのか
なぜこういう研究をすることにしたのか、あるいは、なぜブラネシュティ村に行くことになったのかということについてお話します。
私は大学でロシア語を専攻していました。ロシア語以外にもいろんな言語を学修しましたが、その中のひとつがブルガリア語でした。ブルガリア語はロシア語と同じスラブ系の言語なので関心があったわけです。大学院で専門的な関心の中心となったのは、「言語接触による言語変化」です。言語は接触したときにどのように影響を与え合うのか、どのように変化するのか、ということです。特に国外のブルガリア語方言に関心が向きました。なぜかと言うと、ブルガリアの国外で話されているブルガリア語方言は、それが話されている国や地域におけるマジョリティの言語と接触が生じているからです。
研究対象として選んだのは、ルーマニアのブカレスト近郊に分布するブルガリア語方言です。この方言に関しては、いくぶん先行研究はあるのですが、十分な研究資料となる言語データが不足しています。ですので、生のデータを新たに獲得しようと思い、自ら資料収集に出かけることにしました。
ブラネシュティ村では、ブルガリア語方言を話すのは80歳代の高齢者で、全員がルーマニア語とのバイリンガルです。学校教育はルーマニア語でのみ行われており、ブルガリア語を学ぶ機会がありません。ブラネシュティの住民は、本国の標準ブルガリア語を知らないし、キリル文字の読み書きもできません。今のブラネシュティに住んでいる人たちの大半は、元々はブルガリア側に住んでいた人々の末裔です。19世紀初頭に露土戦争(ロシアとトルコの戦争)がバルカン地域で起こり、戦禍から避難するため、あるいは税制の優遇などを理由にドナウ川を越えてルーマニア側に移住したのです。
ブラネシュティ村での調査
具体的な調査の話に移ります。ブラネシュティ村でどのような調査を行い、どのような人々と出会い、そしてどのような研究を行ったかというお話です。
調査を行うにはまず、インフォーマント(情報提供者)を見つけなければなりません。私の場合はブルガリア語話者です。最初は無我夢中で、いきなり一人でブルガリア語話者の家を訪問したところ、あやしい人物だと危険視されてしまったことがありました。この時、私のブルガリア語の質問を理解した上で、その人はルーマニア語で答えを返してきました。彼らにとってブルガリア語は、家庭や友達など仲間うちで使う言語であり、その一方でルーマニア語は対外的、社会的に使う言語です。明らかによそ者である私に対してはルーマニア語で話したわけです。
それでもめげずに、今度は村の有力者、知識人のコーディネーター(調査協力者)に紹介してもらう形で、ブルガリア語話者のおじいちゃん、おばあちゃんに出会うことで、ブルガリア語で話してくれるようになりました。
データ収集は、インフォーマントとのブルガリア語での対話を通して行います。私からインタビューを行う場合が多く、それをICレコーダーで録音します。その録音を繰り返し聞くことで、文字起こしを行います。それでようやく、言語接触の研究資料とすることができるわけです。
私が出会ったインフォーマントは男性7名、女性7名の14名です。具体的な話題は、子どもの頃の話、家族の話、配偶者との出会いや結婚式の話、それから村の伝統行事や生活の話など、生活に密着した彼らの個人的なストーリーが多かったです。
調査に1回行くだけでは十分な量の資料は取れません。何度も通うことで一種の信頼関係ができてきて、インフォーマント側も自然と心を許すようになってきます。信頼関係を醸成していく中で、人生のストーリーの共有をしてもらえるようになります。また、仲間うちで使う自然なブルガリア語を使うようになってきます。このような関係の変化を経て、私が訪れた時に、今回のお話のタイトルにもなりました「私の孫が来た」と言ってもらったことがあります。別れ際に「次はいつ来るの?」と聞いてくれたり、ついには縁談話をされたり、まさに、自分の孫のように私のことを思ってくれて、そのように対応してくれる、そういった形になってくるわけです。私の方も心情が少しずつ変化してきました。最初のうちは研究データを取るために通っていたわけですが、次第にそこから心情が変化して「人に会いに行く」というふうに気持ちが変わっていきました。
このように資料をとってどのような研究をしているのか少し具体的にお話しします。私の調査は、方言学という学問の分野で言うと、ルーマニアにおけるブルガリア語方言の現状の記述を行っていると言えます。先行研究は、半世紀以上前の調査、記述です。ヨーロッパの社会情勢が大きく転換した今、どのような言語状況にあるのか、あるいは話している人たちの言語はどうなっているのか、これを改めて調査記述することには大きな意義があります。ブラネシュティの方言は国外にあるので、標準ブルガリア語の影響を受けていません。その方言の古風な特徴、標準ブルガリア語に上塗りされていない元の特徴が結構残っています。十分に研究されていない方言の記述ができるという点でも意味があります。加えて、フォークロアの分野において、伝統文化や村の行事など、さまざまな習慣や伝統についても聞いています。例えば、民衆歌謡の記録も収集することができました。これを記録公表して残すことが今後の課題だと考えています。
民衆歌謡を歌ってくれている例を紹介します。おばあちゃんが歌っているようすを録画させてもらったところ、おばあちゃんは「日本に帰ったらその映像を友達や家族、みんなに見せなさい」と言いました。これは本当に意外でした。でも、後々から考えていくと、こういうのは口承文芸ですから、祖先から受け継がれてきたこの歌を、多分、おばあちゃんも次の世代に受け継ぎたかったのだと思います。歌い継ぐという想いを私に託そうとしたのかなと思いました。
言語接触に関して、ルーマニア語との言語接触によって生じた言語変化の記述、分析を行いました。収集した最新のデータをもとに、新しい言語理論の枠組みも応用しながら、一層の研究の進化に努めました。一つだけ具体例を挙げます。それは対格標識のpăというものです。対格というのは、直接目的語を表す形になります。標準ブルガリア語においては、直接目的語を表すのに特別な表示はありません。ブラネシュティ方言は、ルーマニア語で日本語の「〜を」にあたるものを表示するために用いられる前置詞の「pă」を取り込みました。これによって文中で直接目的語がどれであるかを形の上ではっきり表す手段を獲得しました。また、ブラネシュティ方言は、直接目的語、つまりこの例ですとpă Ion「イオンを」に加えて、これと同一指示の人称代名詞Gu「彼を」を二重に使用することによって直接目的語を二重に表示し、これによって聞き手の理解を保証するような文法構造を発展させました。これはルーマニア語の文法構造のモデルに倣っているものです。ブラネシュティ方言には、このような文法レベルの言語変化だけでなく、語彙・音声レベルでの言語変化も見られます。
ルーマニア側のブラネシュティでの調査で終了ではなく、次は、ブルガリア側ではどうなっているかを比較対照するためにブルガリア側の村の調査も行っています。さらにもっと北の方、モルドバ地域にあるパルカニ村にも行きました。ここは、ブラネシュティとは全く異なった言語状況があります。ブルガリア系住民が多数を占め、多言語環境であります。ブルガリアの言語文化はこの村では非常によく保持されていて、若い世代もブルガリア語を上手に話すことができます。この背景には、学校で標準ブルガリア語教育が行われていて、ブルガリア本国がブルガリア語教師を派遣して支援していることがあります。国外でありながらブラネシュティとは全く異なった言語状況にあるモルドバの村の調査との比較を通して、国外のブルガリア系住民の言語文化の保持や変容に関する研究を今後も進めていきたいと考えています。
まとめ
私がブラネシュティでの調査、あるいは出会いを通して何を学んだかについて最後にまとめます。
私が毎回調査に訪れるとインフォーマントはだいたい最初に「お前はブルガリア人か」と聞きます。彼らにとってブルガリア語というのは、仲間うちの言葉、家族の言葉、友人同士の言葉です。そうすると仲間うちの言葉で話す私は、たとえ見た目が違っても仲間、ということになります。つまり、言葉は単なるコミュニケーションの手段や道具だけではないということです。その言葉を話す民族の象徴であり、彼らの文化や生活、歴史などすべてを内包しています。
ブラネシュティ方言というブルガリア語方言は、80歳代の高齢者しか話さないという状況にあります。この背景には、若い世代の無関心、ルーマニアへの同化があります。ブルガリア語とその文化の担い手がブラネシュティ村の中で徐々に消失していっているわけです。調査を通して、彼らが自分たちの言語文化に対して深い愛情を抱いていることに気づきました。自分たちの言語文化が、まさに失われかけている状況で、愛情が一層強くなっているのではないのかなとも感じます。その言葉を若い人々にも本当は伝えたいということをいろんな人が何度も語ってくれました。
調査を通して、あと10年以内にはブラネシュティ方言は失われてしまうのではないかという強い危機感を抱きました。外国人の言語学者である私にできることは何だろう、と段々考えるようになりました。元々は自分の専門的関心、つまり言語接触と変化を追求するための研究でしたが、他者である私に対して心を開き、受け入れ、そして自分たちの人生のストーリーを共有してくれた彼らのためにも、彼らの愛する言葉、文化が存在したことを記録するということが、私にとってできる精一杯のことではないのかなと思います。失われゆくマイノリティの言語・文化の記述研究を行うというスタンスに少しずつ変わっていきました。言葉一つが消えるということは、その言葉自体が消えるだけではなく、その背景にある文化や歴史などすべてのものが一緒に失われてしまいます。従ってそれは、人類の文化遺産、多様性の喪失につながってしまうわけです。今後も、一人の外国人の言語学者として、それを保存し、記録していこうと考えています。
最後になりますが、ここにあるインフォーマントのイニシャルと誕生年が書かれたリストは、他人から見ればデータの情報源を示すただの記号にすぎないですね。ただ、私から見ると、これはただの記号ではなく、一人一人の顔が見えます。どういう人がどんな話をしてくれたのか、彼らが共有してくれた人生のさまざまなストーリーが、このリストにあるイニシャルを見ることで追体験できます。今回のお話の副題にもあります「顔の見えるブルガリア語方言研究」とはまさしくこのことを意図しています。言葉というものの背景には、それを話す人々がいるのだということを、フィールド調査によって実感できました。研究室の中で、紙に書かれたデータやコンピュータ上にあるコーパスのデータをいじっているだけでは、きっとこのことに気づくことはできなかったと思います。今後も人と人との付き合いを大切にして、研究を進めていきたいと思っています。
話し手からもう一言
ロシア・東欧地域に広がるスラブ民族の言語や文化は多種多様ですが、日本ではあまり馴染みがないかもしれません。とりわけブルガリアは、多くの日本人にとってはヨーグルトの国として知られている程度で、そんなブルガリアの言葉、しかもその方言の研究をしているというと、しばしば驚かれます。
言語学は、単なる語学学習とは異なります。対象とする言語の現象や仕組みを様々なアプローチから解明していく学問です。そして、研究の対象とする言語にはいかなる優劣の差もありません。ルーマニアの片田舎で話されている小さなブルガリア語方言もまた、立派な研究対象となるのです。
ちなみに、ブルガリアではヨーグルトのことをкисело мляко(酸っぱいミルク)と言います。そう、ブルガリア人にとってヨーグルトは酸っぱい「ミルク」なのです。ヨーグルトが「ミルク」であるというのは当たり前のことだけれど、それが「ミルク」であるとは普段はあまり意識しないかもしれません。言葉を知ると実にいろんなことが見えてくるものです。役に立つかどうかに関わらず新しい言語の世界に飛び込んでみてください。たくさんの発見があり、それによって視野が大きく広がるはずです。また、それがスラブの言語であるのならなおさら歓迎します。
関連著書
ゼロから話せるブルガリア語
菅井 健太 著
出版年月日 2020年10月10日
ISBN 9784384059830
(2020年12月記)