第34回北大人文学カフェ

哲学者と考える「人生の意味」

みなさんは「人生の意味がわからない」「生きる意味がわからない」と思う時はあるでしょうか。若い人はこれからの人生をどう生きればよいのか、自分は何を人生の目的とすればよいのか、と悩んでいるかもしれません。「人生をやり直したい」と思っている人、あるいは「自分の今までの人生は何だったのだろう」と思っている人もいるかもしれません。しかし、そもそも「人生の意味」とは「わかる」ようなものなのでしょうか。また「人生の意味がわかる」とはどのようなことなのでしょうか。

「人生の意味」について「哲学的に」考えることを通じて、皆さんと哲学を実践してみたいと思います。


イベント開催日
2024年11月23日
会場
北海道大学 文系共同講義棟6番教室
話し手
蔵田 伸雄(くらた のぶお)
北海道大学大学院文学研究院 哲学倫理学研究室 教授

プロフィール

※プロフィールは人文学カフェ開催当時のものです。

はじめに

北海道大学大学院文学研究院の蔵田と申します。私は哲学倫理学研究室で応用倫理学、生命倫理学、規範倫理学、メタ倫理学、またカントという哲学者の研究をしています。

みなさんは人生の意味が、そして生きる意味がわからないと思うことはあるでしょうか。また「人生の意味がわかる」とはどのようなことなのでしょうか。そして、そもそも「人生の意味」とは「わかる」ようなものなのでしょうか。今日は、そのようなことについて哲学的に考えてみたいと思います。そして「人生の意味」について「哲学的に」考えることを通じて、みなさんと一緒に哲学を実践してみたいと思います。

「人生の意味」についての問題提起

まず、みなさんは「人生の意味」について考えたことがありますか。「よく考える」、「悩んだ時などに考えたことはある」、「全くない」。みなさん、いかがでしょうか。それぞれ手をあげてくださいますか。会場では、「悩んだ時などに考えたことはある」という方が多数ですね。

では、あなたの人生に意味があるとしたら、あなたの人生に意味を与えてくれるものは何でしょうか?少し考えてみてください。

 

「人生の意味」についていつも考えている、という人はあまりいないと思います。自分は何のために生きているのか、自分の人生の意味は何なのかということは、「普通は」問わないのではないでしょうか。しかし人がなにか大きな困難に直面した時には、「人生の意味」について考えるのではないかと思います。そのような時は、自分が「生きている」ことの意味がわからないと感じているのではないでしょうか。あるいは、自分の生が「生きるに値しない」と感じているのかもしれません。また、自分が今までしてきたこと、努力してきたことに「意味がない」と感じているのかもしれません。

若い人はこれから自分の人生をどう生きればよいのか、自分は何を人生の目的にすればいいのか、と悩んでいるのかもしれません。中年期の人は「人生をやり直したい」と思っているのかもしれません。あるいは高齢の方の中には「自分の今までの人生は何だったのだろう」と思っている人もいるかもしれません。

ガザやウクライナでは、今、戦争が起こっています。世界中には飢えた子どももたくさんいます。このような逆境の中にいる人々は、自分の人生は何なのだろうと考えてしまうと思います。

あるいは「名前のない問題」と呼ばれている問題があります。ベティ・フリーダンという人が名付けた問題ですが、1950年代〜60年代のアメリカの専業主婦が、豊かになった、お金には困らない、しかしそのような生活に空しさや不安、不満を感じて、自分は何のために生きているのかわからないと考えてしまうという問題です。

 

さて、人生の意味が「わからない」ときには、何がわからないのかもわからない、どう悩んでいいのかすらわからない、ということがあると思います。例えば、以下のような場合です。

● 自分が今行っていることの「目的」がわからない。あるいは自分の将来が、そしてこれからどう生きていけばよいのかが「わからない」。
● 自分の存在の「価値」がわからない。自分が「重要」な存在だとは思えず、自分の存在にどのような意味や価値があるのかが「わからない」。
● 自分の今までの人生が何だったのか、自分が生きてきた「意味」が「わからない」。

 

逆に、人生の意味が「わかる」とはどのようなことなのでしょうか。それは次のようなことではないかと思われます。

● 何を自分の「人生の目的」にすればよいのかが「わかる」。例えば昔自分には本屋を始める夢があったことを思い出し、それを人生の目的にしよう、ということになった。そのような時は、人生の意味がわかった!と思うかもしれません。
● 自分の存在に何らかの「価値」があることが「わかる」。これは自分が生み出したものの価値がわかるということです。自分は何かよいことをした、道徳的価値を生み出した、社会的な価値があることをした、何かの真理の発見に多少は貢献できた。あるいは何か美的価値、芸術的価値があるものを生み出すことができた。このように、自分が生み出したものに少しでも価値があることがわかれば、自分の人生にも価値があることがわかる。そうすれば、自分の人生の意味がわかった!ということになるかもしれません。
● 今までの自分の人生に意味を与える「構造」がわかる。例えば、自分が今、ある仕事をしているのは、若い頃の何かの経験の結果だということがわかった。こういう場合は、自分に生じた出来事の因果関係がわかったことになります。それによって自分の人生の「構造」がわかったのだと言うことができます。このように自分の人生の「物語」が構築されたときには、自分の人生の意味がわかった!と思うかもしれません。
「人生の意味」をネットで検索すると、ヒットするのは大体スピリチュアル関係のビジネスです。ネット上には「これであなたの人生がわかります」といった文言が氾濫しています。そこまで怪しくなくても、何らかの宗教的・神秘的な真理を「知る」ことができれば、「人生の意味がわかった!」と思うかも知れません。
● 生きている「意味」を「感じる」こと。例えば自分が推しているアイドルのコンサートで、生きている意味を感じることもあるでしょう。

「人生の意味」を哲学的に考える

今日は「人生の意味」について「哲学的に考えること」を、みなさんと実践してみたいと思います。

今日の私の話を聞いて、「人生の意味がわからない」という人が「人生の意味がわかる」ようになることはまずないと思います。

実は私も「人生の意味」は全然わかりません。今日は、「人生の意味がわかったので、それをみなさんに教えよう」などといったことは全く考えていません。私も毎日、自分の人生の意味について悩み続けています。しかも学問的な考察の対象としても人生の意味について私は考えていますが、関連する色々な哲学的な問題にもまだ答えが出せていません。このように二重に「人生の意味」がわからないのです。

それでも哲学は「人生の意味」について考えるための「道具立て」を提供してくれます。

今日の私のトークのタイトルは、「哲学者語る人生の意味」ではなく、「哲学者考える人生の意味」なので、みなさんも私と一緒に考えてみてください。

 

では、人生の意味について「哲学的に」考えるとはどういうことでしょうか。

まず、それはカウンセリングではありません。「私は人生の意味について悩んでいるから、それを聞いて下さい」とカウンセラーに相談することではありません。またそれは「人生論」について語ることでもありません。また、音楽を聴いたり、映画を見たり、本を読んで感動して「生きる意味がわかった!」と思うようなことでもありません。人生の意味について哲学的に考えることは、こういったこととは違うのです。

 

人生の「意味」は、辞書を調べて単語の「意味」がわかるのと同じように、何かを調べたら「わかる」ようなものなのでしょうか。そもそも「人生の意味」というのは「わかる」ようなものなのでしょうか。人生の意味は「調べたらわかる」ようなものだと考えることは「カテゴリー・ミステイク」ではないかと言われることがあります。「カテゴリー・ミステイク」とは哲学の用語で、カテゴリーというのは「分けたもの」という言葉です。たとえば、「トランペットの音は青色ですか」という問いには「カテゴリー・ミステイク」が含まれています。トランペットの音は「色があるもの」というカテゴリーには含まれないからです。それと同じように、「人生の意味」とは、辞書を調べたらわかるようなことには含まれないのではないか、ということです。人生の意味について「哲学的に」考えるとは、例えばこのように「人生の意味」という語はどのようなものなのかを批判的に検討してみることです。

 

さて、哲学という学問の中で「人生の意味」について扱うことができるのは、「人生の意味」についての、普遍的で客観的な問い方、思考法、分析法があるからです。つまり、誰にとってもあてはまる、「私個人の人生の意味の問い方」ではないような問い方や考え方があるから「人生の意味についての哲学」が「学問」として成立するのです。「学問」だから「人生の意味の哲学についての国際会議」も開催することができます。「人生の意味」についての哲学的な論文を、哲学の専門的ジャーナルに掲載することもできます。「人生の意味の哲学」についての講義も成立します。しかも、今日の私の話のもとになる研究は、「科学研究費補助金」をもらって行ったもので、その出どころはありがたいことに国民の税金です。今日はその研究成果をみなさんにお話しているわけですが、今日の私の話は文部科学省的には「人文科学」、つまり「科学」なのです。

このように「人生の意味」について「哲学的に語ること」は、人生の意味を普遍的で客観的な学問として語ることであって、自分の「人生論を語る」とか、「日記に書くようなことを語る」ことではないのです。

みなさん、カントという哲学者をご存知でしょうか。私の研究対象の一つはカントの哲学と倫理学です。カントには『純粋理性批判』、『道徳形而上学の基礎づけ』、『実践理性批判』といった著書があります。またカントは国連の提唱者でもあって『永遠平和のために』という本も書いています。

カントは『純粋理性批判』という本の中で、「人は哲学を学ぶことはできない(中略)。人は哲学することを学ぶことができるだけだ」と言っています。哲学は他の学問のように「できあがったもの」ではありません。哲学とは過去の哲学者による、できあがった「思想」であるというよりも、むしろ「哲学する」「哲学的に考える」という「行為」なのです。カントの本を読むということは、カントがつくった理論体系を理解することであるというよりも、カントと一緒に考えることなのです。

よく、哲学に答えはない、と言われます。そして人生についての問いにも答えがありません。そして哲学は「答え」ではなく、むしろ答えを探す「実践」であり、ある種のスキルや道具なのです。哲学の道具を使えば色々な問題について考えやすくなります。そして哲学とはそのような道具を使って、答えを探す「実践」なのです。

哲学の難しさは、将棋やチェスの難しさに似ていると思います。私は将棋の駒の動かし方はわかりますが、将棋の実況中継で解説者が「あ、これはいい手ですね」とか言っていても、それがなぜいい手なのかがわかりません。哲学の難しさはそれに似ていて、ルールがわかったから、概念の意味がわかったからといって、わかるようなものではないのです。哲学的な思考のルールや概念を理解しても、そのルールや概念を具体的な局面の中でどう使えばよいのかがわからないと、何が議論されているのかがわからないのです。ただし哲学とゲームとの違いは、哲学は勝利を追求するのではなく「真理」を追求しているということです。「真理」を追求するためには、そのための規範が必要です。しかも哲学には「答えがない」からといって、哲学的に考えることで得られるものが何もない、ということにはなりません。

ここから、人生の意味について哲学的に考えるための「道具」をいくつか皆さんに示してみたいと思います。

人生の意味がわからないときには

では日常生活の中で人生の意味がわからないときはどうすればよいのでしょうか。スペイン語の単語の意味がわからないときには、スペイン語の辞書を引きますね。あるいはスペイン語が分かる人に、その単語の意味を聞いてもよいかもしれません。同じように、人生の「意味」がわからないときには、「プラトンを読んでみよう」「ニーチェを読んでみよう」と哲学書を読む人もいると思います。しかし先ほども言ったように、人生の「意味」とはそのような「調べたり人に聞いたらわかる」ようなものなのでしょうか。人生の意味とは、それを知るような「賢者」に聞いたらわかるようなものなのでしょうか。あるいは大学の哲学の先生に訊けばわかるものなのでしょうか。昨年、私も『人生の意味の哲学入門』という本を編集して出版しました。でもこの本を読んでもたぶん人生の意味はわからないと思います。

 

私は最近、何かわからないことがあれば、だいたいChatGPTに訊きます。「人生の意味がわかりません。人生の意味を教えて下さい。」とChatGPTに訊くと、ChatGPTはパーンと答えてくれます。

ChatGPTは「人生の意味」について、こんなにも丁寧に教えてくれます。「人生の意味は、一つの普遍的な答えがあるわけではありません。人それぞれの価値観や経験によって異なりますが、以下の視点が参考になるかもしれません。」と始まり、5つの視点を提示し、「最終的には他者や外部の答えに頼るのではなく、あなた自身が何を大切にしたいのかを見つけ、それを基に人生の意味を見つけていくことが重要です。」とまとめられています。

哲学の専門家に訊いても、だいたいこれと同じような答えが返ってきます。だから今日の私の話はこれで終わりにしてもいいのですが、私は「いや、だからどうなんだ」と思ってしまうのです。このように思わない人は「人生の意味」の哲学には向かわないと思います。「だからどうなんだ」と思ってしまうような人が、「人生の意味」の哲学に向かうのだと思います。

 

「人生の意味」の哲学について考えるための一例を挙げましょう。ロシアの作家のトルストイは、『懺悔』という本の中で以下のように書いています。自分は放蕩三昧の生活をした。そしてシェイクスピアのような偉大な作家になりたいと願い、実際に、偉大な作家になることができた。しかも農業経営者としても大成功して、経済的にも成功した。農民の教育にも努力した。民衆を幸福にしようとした。家庭的にも幸せな結婚をして多くの子どもにも恵まれた。身体的にも精神的にも極めて健康で精力的だ。富、名声、地位、愛、健康の全てをもっている。ところが自分の人生には意味がないと感じ始め、毎日「死にたい」と考えるようになった。「人生は無意味なものである」。トルストイはこれが真理だと思い、ニヒリズムに陥ってしまいます。

こういったことをどう解釈したらよいのでしょうか。

 

次にこんな例について考えてみてください。自分の人生に倦んだテレサ(仮名)は、世の中に大きな貢献をしてきました。しかし彼女は自分の人生に「意味」や生きがいを感じることができない。テレサ(仮名)はそのような自分の人生に、はたして意味はあるのだろうか、と考えている。テレサ(仮名)は強い信仰をもって、インドの多くの貧しい病人を癒そうとして、そのような患者たちを救うための事業に自己犠牲的に邁進した。彼女は自分が社会に貢献していることがわかっているし、自分の活動にやりがいや満足も感じている。しかし彼女は孤独感に苦しめられていて、自分の人生にはやり残したことがあるとも感じている。こういった事態があることはみなさんも十分理解できると思います。このようなことを、どう考えたらよいのでしょうか。

 

トルストイやテレサ(仮名)のような考え方は、人生の意味についての「懐疑論」と呼ぶことができます。つまり、自分の人生には生きる理由や目的はないのではないかと疑ってしまうということです。哲学的にはいろいろな懐疑論があります。デカルトは、懐疑の末に「我思う、ゆえに我あり」という真理を見出したと言われています。人生の意味についても、デカルトのように疑った方が、真理を見出せるかもしれません。

ただ人生の意味について疑いだしたらきりがありません。そこで、とりあえず「快楽を追求することにする」あるいは「日々の仕事に没頭することにする」、ご近所のゴミ拾いから始まって平和運動に至るまで、何でもいいので「社会の役に立つことをする」。そのように決めたとしましょう。しかしそれでも人生の意味が「わからない」。トルストイやテレサ(仮名)の悩みはこのようなものだと考えることができます。

 

このような「人生の意味の懐疑論」について考えてみると、なぜ人生の意味を疑ってしまうのか、という疑問がわきます。まず宇宙は大きいし、138億年の歴史があります。銀河系には数兆個の恒星があります。そういう銀河系が宇宙には何兆個もあります。このような宇宙の長い歴史と大きさの中では自分の成し遂げたこともちっぽけすぎる。自分の残したものも、やがては消えてしまいます。そして自分が死んだら、自分のこともみんなに忘れられてしまう。そして自分がしたことも社会や世界に、そしてこの広大な宇宙に大きな変化をもたらすわけではない。自分が何か大きなことを成し遂げたとしても、この広大な宇宙の中では、何の意味もない、ということになります。広大な宇宙の大きさや時間の長さに比べると、自分はあまりにもちっぽけで、自分の人生の意味を疑い、自分の人生には意味がない、と感じてしまうのでしょう。こういったことを最初に問題にした哲学者はパスカルだと言われています。

 

しかし哲学では、疑うことによってより確実な真理が得られると考えられることがあります。例えば、ペットボトルは本当にここに存在しているのかと疑ってみましょう。哲学者たちは「ここにペットボトルが本当に存在していることを証明できるのか」といったことを議論します。このように、哲学者は自明なことを疑いますが、疑うことから新しい哲学的問いが始まることがあります。たとえば「価値」は本当に「ある」のだろうかと問うことによって、「価値」とは何かという哲学的な問いが始まります。そして「人生の意味」についても、疑うことから新しい哲学的な問いが始まります。

 

たとえば、「意味がある人生」とは「幸福な人生」や「道徳的な人生」だと考えられることが多いのですが、それを疑うことで、新たな哲学的な問いが始まります。

「意味がある人生」と「幸福な人生」や「正しく生きる人生」は同じなのかと疑ってみると、どうも同じだとは言い切れません。最近の哲学では「幸福」と「人生の意味」は異なるものではないか、と考えられることが多くなってきました。つまり「人生に意味がある」と感じることは、「幸福」や「満足」を感じることと必ずしも同じはないのではないか、ということです。「幸福だけれども意味のない人生」や、「幸福ではないけれども意味がある人生」もあります。このように〈意味がある人生=幸福な人生〉というわけではなさそうです。

また〈意味がある人生=道徳的に生きる人生〉でもなさそうです。正しいことをしているのに、自分の人生に意味が感じられないことがあります。つまり「人生の意味」の価値は、「善」「正義」「道徳」「倫理」などの価値とも異なるようです。

先にみたトルストイやテレサ(仮名)のように、「幸福で充実していて、社会に貢献もしているけれども、自分の人生の意味が感じられない」という状態があります。逆に、あまり幸福でもないし、人の役にもたっていないけれど、意味はあると考えられる人生もあります。

このように「人生の意味」の価値は、「幸福」の価値や「道徳」の価値とは違うと考えられるようになってきました。

 

さて「哲学」は「人生の意味」を問題にすることができるのでしょうか。またそれを問題にするべきなのでしょうか。哲学とは真理を追求する「厳密な」学問です。20世紀の前半に、「論理実証主義」という立場の哲学の学派がありました。この立場では「検証」できること、つまり実験や観察で確かめることと論理で証明できることだけが真理だと考えられていました。しかし「人生に意味があるかどうか」といったことは検証できないし、実験で確かめることもできません。それを論理で証明することもできません。そうすると論理実証主義の立場では、「人生に意味があるか」といった問題は厳密な哲学の問題にはならないことになります。そして、この論理実証主義の立場は、後に言語分析や概念分析を行う「分析哲学」という学派になっていきます。

また哲学研究の多くは哲学史の研究であり、そこでは厳密な文献研究がおこなわれています。「人生の意味」はニーチェ、サルトル、ハイデガーらの「実存主義」の中で問題にされてきました。「人生の意味」についての研究は、このような「実存主義」についての厳密な文献学的な哲学史研究の中で扱われることだとも考えられてきました。直接「人生の意味」について問題にするのではなく、「実存主義哲学」の文献を研究すればよい、と考えられていたのです。

このように、「人生の意味」を問うことは、厳密さを重んじる「分析哲学」や哲学史研究とは相性が悪いと考えられてきました。

ところが最近になって、厳密さを重んじる「分析哲学」の中でも、「人生の意味」が重要な問題として議論されるようになってきたのです。

 

また「人生の意味」という問題は、歴史的にみても、わりと新しい問題だと言われています。我々のイメージする「人生の意味」という言葉や概念は、18世紀の終わり頃のヨーロッパで生まれて、それが哲学的にも問題にされるようになったようです。作家でいうと、このような問題に悩み始めたのはゲーテあたりからではないかと思われます。ゲーテよりも少し上の世代のカントは、人生の意味については考えていません。しかし同じ哲学者でも、カントよりも少し後のショーペンハウアーになると、「人生の意味」について考えています。

それではなぜこの時期に、「人生の意味」について問われるようになったのでしょうか。なぜ生き方がわからないという悩みや、生きることの「意味」や「目的」を知りたいという欲求が現れたのでしょうか。その原因はいわゆる「神の死」です。この時期までのヨーロッパでは神の存在が信じられていて、生きることの「意味」や「目的」は神が与えてくれ、神が生き方の方向性を示してくれていました。ところが「神の死」によって、生き方の方向性を示すものがなくなってしまいました。また社会が成熟し、価値観が多様化し、生き方の選択肢も増えてきました。それによって人々は、どのように生きればいいのか、と悩むようになったのです。このようなことが文学や哲学でも問題にされるようになったようです。しかも20世紀になると、悲惨な戦争や虐殺、ホロコーストがありました。これによって、ますます人生の意味について問われるようになってきたのです。

 

ここで少しまとめておきたいと思います。「人生の意味」については、いろいろな学説がありますが、J. Seachrisというアメリカの哲学者が「人生の意味」には三つの側面があると言っています。今、この分野を研究している研究者の中ではこれが通説になっています。

「人生の意味」に関する5つの問い

さて「人生の意味」については、世界の哲学者が関連する様々な問題について考えています。そういった問題の中から、今回は以下のような5つの問題をピックアップして、みなさんに事前に回答していただきました。以下の5つの問いです。

1. 人生に「意味」はあるのか
2. 人生の意味は「見つけるもの」か「つくるもの」か
3. 人生の意味は「感じるもの」か「わかるもの」か
4. 人生の意味は心のなかにあるのか自分の心の外側にあるのか
5. 人生の意味は英語で“Meaning of Life”か“Meaning in Life”か

みなさんの回答を紹介しながら、この5つの問いについて順番に考えていきたいと思います。

※クリックすると図を拡大できます

まず一つ目の問いです。人生に「意味」はあるのでしょうか。それとも人生には「意味」も「価値」もないのでしょうか。ここで「神は死んだ!」で有名なニーチェの登場です。学生たちもなぜかニーチェが大好きで、私の倫理学概論の講義では一番盛り上がるのはニーチェの回です。ニーチェの立場はニヒリズム、要するに「価値」は「存在」しないという立場です。ニヒリズムとは、普遍的な道徳などの価値を否定し、人生には「意味」も目的もない、世界や宇宙も無意味だという考え方です。ニーチェの「神は死んだ!」という言葉は、このニヒリズムを表現したものです。このようなニーチェのニヒリズムは、単なる無気力や、「生きていくのがもう嫌だ」といった個人的な話ではありません。ニヒリズムとはヨーロッパ社会と世界全体の問題なのです。ただニヒリズムには、若干やけくその明るさもあります。ニヒリズムには、いろいろな束縛から自由になるという側面があるからです。価値が存在しないのであれば創ればいいのであって、そういう点ではニヒリズムにはポジティブな側面もあります。

二つ目の問いです。人生の意味は、みつけるものなのか、つくるものなのか。つまり発見か創造か。「人生の意味」がわかるということは、「人生の意味を見つけること」だという立場があります。一方で、「人生の意味」はあらかじめあるわけではなく、自分で創造するものだという立場があります。

人生の意味は「見つけるもの」だという立場では、「人生の意味がわかる」ということは、旅の結果として何かを見つけたり、地中に隠されているものを発掘して見つけたりするようなことに似ていることになります。「自分にとっては、実はこれが大事だったんだ」といったことがわかるような場合のことを考えてみてください。

あるいは人生の意味や価値とは「創造されるもの」だという立場もあります。おおまかに言って、ニーチェやサルトルはこの立場です。人が科学的真理を生み出した、道徳的価値を生み出した、美的な価値を生み出した、あるいは経済的な価値を生み出した。おおざっぱに言って、この立場では、価値を生み出せば、それが自分の人生の意味になるということになります。

三つ目の問いは「人生の意味」とは「感じるもの」か「わかるもの」か、ということです。つまり「人生の意味」とは感じるものなのか、知性でわかるものなのか。「人生の意味」が「感じるもの」なら、それは感情の対象だから、満足や快楽、幸福などだということになる。他に感じられる価値としては、愛の価値などがあります。家族や友人との人間関係の価値なども感じられる価値だということになりそうです。こういうものはなかなか言語化できないですね。

一方で、「人生の意味」が知性で「わかるもの」なのであれば、それは理解の対象だから知的なもので、言語化できることになります。そもそも「意味」とは理解可能な何かとして「わかるもの」です。

人生の意味とは「わかる」ものだということについて、もう少し考えてみましょう。

人生の意味が生きる目的であるなら、「人生の意味がわかる」ということは、自分の人生の「目的」は何かがわかるということです。つまり自分は何のために生きているのか、自分が何を目的として生きればいいのかがわかるということです。

人生の意味が価値であるなら、どういう価値を生み出せばよいのか、自分はどのような価値を生み出しているのかが「わかる」ということです。

 

「人生の意味がわかる」ということは、何か悟りのような宗教的経験を意味すると考えられることもあります。「人生の意味」が何らかの宗教的な真理を意味するのなら、そのような「人生の意味」を知ることができれば、自分の人生に関わるすべてのことの「意味」が「わかる」のかもしれません。宗教的な真理ではないとしても、「これがわかれば生きる意味がわかる」といった根本的な原理があると考えられている場合もあるでしょう。

さて、4つ目の問いは「人生の意味」は主観的なものなのか、客観的なものなのかという問いです。人生の意味は主観的で当人の心の中にあるという立場は、人生の意味の「主観説」と呼ばれています。みなさんの回答では、こちらを選んだ方のほうが多かったようですね。人生の意味は主観的なものだと考えるということは、人生の意味は欲求の満足や快楽などにあると考えるということです。つまり、重要なのは自分の人生をどのように感じるかということであって、客観的な立場から見て自分の人生がどのようなものなのかは二の次ということになります。

一方、客観説とは、人生の価値は客観的で心の外にあるという立場です。この立場では、立派な橋のような目に見える、形あるものを生み出すことに価値があることになります。また、この立場では真・善・美といった形のない価値を実現することにも、人生の意味があるということになります。この立場では、真理を発見した、社会の中の幸福を増やした、正義を実現した、芸術的な価値を生み出だしたといったように、他人の幸福のため、あるいは社会の中の価値を増やすために生きることに「意味がある」と考えられていることが多いのです。他人のためになることをすればするほど、あるいは社会に貢献すればするほど、自分の人生は意味のあるものになるわけです。

 

このように主観説か客観説かということが言われるようになったきっかけは、カミュの『シーシュポスの神話』というエッセイについてリチャード・テイラーというアメリカの哲学者が問題提起をしたことです。

カミュという作家が『シーシュポスの神話』というエッセイで、このような話を書いています。シーシュポスは神を欺いた罰として、大きな岩を山頂に持ち上げなければならない。しかしその岩は山頂に持ち上げたところで、自分の重みで山の下に転がり落ちてしまう。そのため、シーシュポスは再び苦しい思いをして、山上に岩を持ち上げなければならないのですが、これを無限に繰り返さなければならないのです。

このようなシーシュポスの生は苦痛に満ちています。自分の現状を肯定できません。自分の行為に重要性を感じることもできません。シーシュポスの人生には目的もありません。シーシュポスが行ってきたこと、今行っていること、これから行うことは世界に何の変化ももたらしません。このようなシーシュボスの生が「無意味な生」の典型とされることになります。「シーシュポス的な生」、例えば毎日、同じつらい仕事をこなすような苦痛に満ちた生には「意味」がないということになります。

ところがアメリカの哲学者のリチャード・テイラーがこの神話について、「では、シーシュポスに薬物を与えて、岩を持ち上げたいという強い欲求を与えればいいのではないか」、という問題提起をしたのです。何らかの薬物によってシーシュポスの心に岩を持ち上げ続けたいという強い欲求が植え付けられ、シーシュポスが岩を持ち上げるという行為そのものに喜びや満足を見出すことができるなら、岩を持ち上げ続けるという行為にも意味があるということになります。このような解決は主観説的な解決です。

そうではなく客観説的な解決として、このような行為が成果を生み出す形にすればよい、という解決もあります。永遠に岩を持ち上げ続けるとしても、その岩が転がり落ちることはなく、毎回違う岩を持ち上げ続けて、それらの岩によって立派な神殿をつくることができるなら、シーシュポスの行為には意味があるのではないでしょうか。

世界中の多くの哲学者がこのようなテイラーの問題提起に、関心をもつようになりました。

 

この主観説と客観説のどちらが正しい立場なのかという議論に関しては、この両方を満たす立場が正しいと言われることが多いのです。

主観説への批判としては、ある行為が本人にとって価値があるなら、その行為が他人にいかなる効果や影響をもたらさなくても、あるいは悪影響を与えていても、意味があることになるのか、というものがあります。例えば、テレビの前に座り続け、ビールを飲んでポテトチップスをかじりながら、リアリティ番組を見続けるような人生であっても、本人がそれに満足しているなら、そのような人生にも「意味がある」のか、ということです。

客観説への批判としては、例えばがんの特効薬を開発した、といった重要な医学的貢献をした医学研究者が、自分の人生には満足していないような場合、その研究者の人生にはあまり意味がないということにならないか、というものがあります。

そうすると「意味のある人生」のためには、客観的価値と主観的価値の両方が必要なのではないか、ということになります。このような立場は「ハイブリッド説」と呼ばれていますが、これが今の通説になっています。

それでは最後の質問です。「意味がある人生」は、英語ではMeaning of LifeになるのかMeaning in Lifeになるのかという問いです。先の「人生の意味は主観的か客観的か」という問いは、この二つの中ではどちらかというとMeaning in Lifeについての問いなのです。近年の「人生の意味の哲学」では、生活を「より意味があるものにするものは何か」という形で「意味がある人生の条件」について議論することが多いのです。それに対する標準的な答えは、例えば「客観的な価値を生み出す生に満足していること」、といった答え方になります。このような問い方では、「人生」や「生活」の中の「意味」や「価値」が問題にされていることになります。

このような問い方をする議論では、小難しい形而上学的な問題について考える必要がありません。つまりどのような生き方をすればよいのか、ということだけを問題にすればよく、自由とはなにか、世界とはなにかといったことを問題にする必要はないことになります。人生の意味に関する問いが「あなたは金魚を育てることだけに喜びを感じるような生には意味がないと思いますか」、みたいな問いになるので議論がしやすくなるのです。

こういう問い方はおかしいのではないか、という立場もあります。そのような立場では、「人生の意味」は英語ではMeaning of Lifeだということになります。私はどちらかと言うとこちらの立場です。Meaning in Lifeについての問いに答えようとするだけでは、人生の無意味さ、ニヒリズムや不条理に関する問いに真剣に向き合っていないのではないか。金魚を育てるだけの人生に意味があるかどうかといったことについて議論するのは、「人生の意味」についての議論の仕方としては、ちょっと違うのではないか。人生の意味は社会貢献をすることにあるのか、といった問い方は「人生の意味」Meaning of Lifeに関する問いを「何をすればよいのか」という問いにずらしています。「人生の中ではどのようなことに意味があるのか」というMeaning ‘in’ Lifeの問いは、「人生そのものの意味」や「世界の意味」に関する問いへの回答を回避しているのではないか。生の中の意味(Meaning ‘in’ Life)ではなく、Meaning ‘of’ Lifeを、つまり生、人生、生きることそのものの意味を問う必要があるのではないか、ということになります。

まとめ

最後に人生の意味の三つの意味についてまとめておきます。一つ目の意味、つまり人生の意味とは人生の目的だとする場合には、人生の意味への問いは、「自分の人生の目的とは何か」という問いだということになります。二つ目の意味のように、人生の意味を「価値」や「重要性」として理解するなら、たとえ自分の人生には客観的価値がなくても主観的価値はあるかもしれないということになります。あるいは社会への何かしらの貢献という形で、自分の人生にも小さくはあるが客観的価値はあることになるかもしれません。三つ目の意味、つまり人生の意味とは理解可能な何かであるとするなら、自分の人生の物語を考えることによって、自分の人生を理解可能なものにしていくことができるということになります。
では、私のトークはこれで終わります。

話し手からもう一言

今日の私の話で言及した本をあげておきます。

  • 森岡正博&蔵田伸雄編(2023)『人生の意味の哲学入門』春秋社
  • カント(2014)『純粋理性批判 上・下』(石川文康訳)筑摩書房
  • トルストイ(1935)『懺悔』(原久一郎訳)岩波文庫
  • カミュ(1969)『シーシュボスの神話』(清水徹訳)新潮文庫

今回の私のトークはJSPS科研費JP24K00001の助成による研究の成果の一部です。

関連著書

人生の意味の哲学入門
森岡正博、蔵田伸雄(編) 春秋社
出版年月日 2023年12月20日
ISBN 9784393333952

書香の森 出版社のページ