第33回北大人文学カフェ

芭蕉が聴いた 私に聞こえる
日本古典文学の解釈と共有知

わずか17文字で綴られた、ハイクという文芸。
紙とペンだけで始められるこの最も小さな文学は、300年以上に渡って、日本の四季の移ろいを切り取り、生活の中の様々な情感を表現してきました。
17文字で描かれたある光景を通して「私」に見えているものは、隣の「誰か」が見ているものと、果たして同じものだったでしょうか。自明に見えた、そのひと言ひと言の前で足を止めてみると、思いがけず全く違う風景が見えてくるかもしれません。無数に枝分かれする解釈が示すものは、白?黒?それともグレー?
たとえば芭蕉の描いた音風景が、何を奏でていたのか。
わずか17文字の言葉から、どんな音が響くのか。耳を澄まして聴いてみてください。

今回のファシリテーター:
吉藤 岳峰さん
北海道大学 大学院文学院 博士後期課程(日本古典文化論研究室)


イベント開催日
2024年07月28日
会場
紀伊國屋書店札幌本店
話し手
南 陽子(みなみ ようこ)
北海道大学大学院文学研究院 日本古典文化論研究室 准教授

プロフィール

※プロフィールは人文学カフェ開催当時のものです。

はじめに

第33回北大人文学カフェの話し手を務めます北海道大学文学研究院、日本古典文化論研究室の南陽子と申します。専門は江戸時代の前期、1700年前後に活躍した井原西鶴、近松門左衛門などの元禄文芸をおもな研究対象としております。なかでも今回は、講演タイトルにあげました松尾芭蕉の「ふる池や」の句を中心に、「解釈とはなにか」という問題について皆さんの意見を聞きつつ、考えていきたいと思っております。

ふる池や 蛙 飛び込む 水の音

芭蕉本人が書いたとされる「ふる池や」句の短冊をスライドにあげました。こちらの画像、兵庫県伊丹市にある俳諧専門の資料館、公益財団法人柿衞文庫所蔵の大変貴重な短冊です。芭蕉の短冊は、コピーがたくさんあるのですが、なかなか本人が書いたものはない、その中の貴重な一つです。自然体で気取りのない、うまいと思われようとしていない、そんな素敵な字だなと思います。どうぞ、この機会にじっくり見てみてください。

※許諾の関係上、芭蕉真筆「ふる池や」短冊画像は柿衞文庫のウェブサイトにてご確認ください。
 http://www.kakimori.jp/2007/06/post_19.php

本日は、芭蕉がこの句を詠んだ1686年(貞享3年)、松尾芭蕉43歳の当時の姿を想像しつつ、この「ふる池や」句が描いた世界について、あれこれと考えていきたいと思います。

「ふる池や」クイズ

まずは皆さんに二つの質問があります。この「ふる池や」の句、虚心坦懐に読んでみて、どんな情景、どんな意味を読み取る、感じ取るでしょうか。最初の質問です。俳句には必ず季語があり、季節が詠まれています。この「ふる池や」の句の場合、春、夏、秋、冬のうち、どの季節を詠んだ句でしょうか。

続けて第2問です。この「ふる池や」の句は、心情、感情で言うと、どんな気持ちを詠んだ句だと思うでしょうか。1番・楽しさ、2番・喜び、3番・寂しさ、4番・悲しみ、感じ方なので、簡単な問題だと思います。どちらも直観でよいので、挙手でお答えください。

どちらも、かなり偏った結果になりました。季節は夏30で、春・秋5、冬が2となりました。今は夏なので、今の季節らしいイメージなのかもしれません。

心情の方も、3番・寂しさが20人、ほかが数人と、かなり偏った答えになりました。お二人くらい意見を聞いてみましょうか。感じたことをそのままお答えください。

会場参加者:「楽しさ」と答えた方
暑くて蛙が池に飛び込み、ウキウキしているのかなと思いました。

プールに飛び込んで気持ちいいみたいな、生き生きとした感じですね。

会場参加者:「寂しさ」と答えた方
蛙が池に飛び込んで、音だけが残る、でも蛙はいなくなるということで、
一抹の寂しさを感じました。

音だけが残って、けれど蛙の姿がない、その蛙の姿が見えないところに寂しさがある。言いえて妙ですね。

プールに飛び込んで「楽しい」という蛙と、音だけが残って「寂しい」蛙と、見事に正反対のものを、同じ17文字を読んで、それぞれの人が感じていらっしゃる。感じ方というのは個人の自由ですので、それぞれの解釈はそれでいい。特にこういう韻文の場合、必要な情報をやり取りするために書かれたテキストではありませんので、受け取り手側の裁量、好きに読む自由が通常よりも多めに残されています。その幅とか余白を利用して楽しむ、楽しませる。逆にそういう余白がないと、こういう文学作品は誰も読まなくなるものかもしれません。なので、正確である必要であるとか、正解である必要は必ずしもないと思ってください。

蛙(かはづ)とは何か

皆さんが今感じていることは、それはそれでいい。その一方で、この句を詠んだ松尾芭蕉その人は、何を考えてどのようにこの句を創っていたのか、そこに近づくためには何をすればよいのかを考えていきたいと思います。その第一歩として、「ふる池や」の句を声に出して読んでみたいと思います。韻文というのは、朗じることを前提とした文芸ですので、韻律、音の響きがとてもいい。その音の響き方まであわせて鑑賞しないと、きちんと鑑賞したことにならない。では代表して、ファシリテーターの吉藤くんに詠んでもらいましょう。

ふる池や 蛙(かはづ) 飛び込む 水の音

あれ?かわず?「ふる池や 蛙(かえる) 飛び込む 水の音」ではない?なぜ?

皆さん、この句以外の場所で、この「蛙」という漢字を「かわず(かはづ)」という読み方で聞いたこと、使ったことがあるでしょうか。おそらく大半の人が「かはづ」という言葉をここでしか聞いたことがない。漢字表記で「蛙」という一文字だけを見たら、全員がこれを「かえる」と読むはずです。では、なぜ私達は、これを「かはづ」と思わず読んでしまうのか。

結論から言います。「蛙」と漢字で書いて「かはづ」と読むと決めてある場所があります。それが俳諧の成立するはるか以前から千年近く続いていた和歌の中で、蛙が詠まれた場合です。『歌ことば歌枕大辞典』から蛙の項目を引いてみると以下のように記されています。

蛙には古くから「かへる」「かはづ」の両様の呼称があった。(中略)しかし、和歌では「かはづ」しか用いないことはよく知られている。

「かへる」と和歌の中で出てくる時には、例えばあなたのもとに帰る、come backするという意味を掛詞として「かえる」に寄せているときに限られます。この「かはづ」、

水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける

と『古今集』仮名序にあるように、水辺で鳴くとされ、特に清流、美しい川の流れとともに詠まれてきました。また、次に挙げられている二つの和歌に見られるように、山吹の花とともに、美しい川、山吹、そして「かはづ」、というセットで詠まれます。

かはづ鳴く 神奈備川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花
かはづ鳴く 井出の山吹 散りにけり 花の盛りに あはましものを

この古今集の歌を聞いたことがある方がいるかもしれません。これは、恋の歌ですね。かはづが鳴く井出の山吹が散ってしまった。あなたと一緒に満開の山吹を見たかった、会いたかったわ、というとてもきれいな歌です。もしくは万葉集のこのような歌です。

思ほえず 来ましし君を 佐保川の かはづ聞かせず 帰しつるかも

佐保川のかはづの声を聞かせずにあなたを帰してしまうなんて。あなたと一緒にこのかはづの声を聞きたいわ。あなたとこの声を聞ければどんなによいでしょう。ゲロゲロゲロゲロ〜・・・ロマンチックですね!

あ、なんか今、笑われた気がしました。なんか変だったみたいなので、ちょっと調べてみましょう。スマートフォンをお持ちの方、せっかくなので今、出して調べてみてください。音声をONにして「カジカ カエル」で検索してみてください。

虫の音のような不思議な音が聞こえてきました。和歌で詠まれる「かはづ」という蛙は、「カジカガエル」という特定の種類を指しています。万葉の人たちは、ゲロゲロゲロゲロではなくて、このリリリリリリリリ〜、コロコロコロコロ〜という音を、川辺で聞いていました。このカジカガエル、漢字で書くと「河鹿蛙」と表記します。秋に牡鹿が鳴く妻問いの声、繁殖期に牝に求愛するために甲高いケーン、ピューという鳴き声をたてる、その鳴き声がとても美しくてかつ、どこか悲しげな哀調があるとして、やはり恋の歌の中でたくさん詠まれてきました。それを踏まえて、この美しい声で鳴くカジカガエルは「川に住む鹿」と称されています。見た目にもとてもかわいらしい小さな蛙です。

ではこの「かはづ」の鳴き声と姿を頭の中に入れて「ふる池や」の句に戻ってみましょう。

「ふる池や」句の解釈

芭蕉が1686年にどんなシチュエーションで「ふる池や 蛙飛び込む 水の音」の句を詠んでいたのか。山奥の古い池のほとりで一人寂しく短冊を持ってしたためていた。かっこいいですね、渋くていかにも俳句という感じです。

けれど、残念ながらこの句の場合はそうではなかったことが、はっきりわかっています。この「ふる池や」という句は、芭蕉の弟子たちみんなで、ワイワイ相談しながら創った句です。芭蕉のとなりにはいつも門人の誰かがいて、彼ら門人のことを、芭蕉の「蕉」の字をとって「蕉門」と呼んでいます。芭蕉としては、この句の中で蛙を飛び込ませることは決まっていて、下の「蛙 飛び込む 水の音」の部分が先にできていたのだそうです。けれど最初の5文字が決まらない。蕉門の門弟たちに相談して出てきたのがこの3つの句です。

其角  山吹や 蛙飛び込む 水の音
嵐蘭  淋しさに 蛙飛び込む 水の音
杉風  宵闇に 蛙飛び込む 水の音

「ふる池や」の句は、最初に『蛙合』という俳書の中に収められました。この俳書は「蛙」という共通のお題で、右と左、どちらが良い句をつくるかというゲームになっていて、このあと二十番まで、右対左の戦いが繰り広げられます。その栄えある巻頭の戦いを飾ったのが「ふる池や」の句でした。おそらくこの句は、がやがやおしゃべりしながら、其角の『山吹や〜』の案に「それ平凡だよ」「和歌とまんま、一緒じゃん」「優等生だな、其角は」とやりとりをしたり、もしくは嵐蘭の『淋しさや〜』の案だと、「さびしい」とか「寒い」は蕉門俳諧が好んで使った言葉、概念なので正統派なつけ方ですが、ひねりが足りないですかね。『おくの細道』の最初の章段「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 杉風が別墅に面八句を懸置」で名前が出てくる杉風の『宵闇に~』は目の前に浮かぶ感じで、イメージしやすい句ですが、けどちょっとキザでしょう、とかそんなやり取りが門弟たちの間で交わされたのかもしれません。お茶とかお酒、酒の肴などが軽く回されていた可能性もあります。

俳諧が創られた現場というのは、いつも背景や文脈があって、大概の場合は一人では創っていません。特に芭蕉の場合は、推敲した過程がメモ書きとか、手紙のやり取りの中で残されているので、こうして弟子たちと相談したり、しばらく寝かせてまた書き直したり、時間をかけて一つの句を完成させた足跡を辿ることができます。推敲を重ねながら繰り返し複数の俳書の中に同一の句、もしくはそのバリエーションになる句が収録されています。

この『蛙合』では、最終的に芭蕉本人が「ふる池や」の上五を提案し、巻頭句を飾りました。それに対になる形で右として、やはり芭蕉の門弟の一人、仙花の「いたいけに 蛙つくばふ 浮葉かな」が添えられます。蓮の葉の上に蛙がうずくまっている姿を「いたいけ」と呼んで、蛙を擬人的に観察しています。聴覚的な芭蕉とは対象的に、視覚的な弟子の句が並ぶことで、とてもいいペアとして冒頭が飾られています。

『蛙合』に登場した「ふる池や」の句は、その後、『春の日』という俳書に、他の俳人の句とともにもう一度収録されます。「みかへれば 白壁いやし 夕かすみ」が画像中の最初の句で、二つ目に「古池や 蛙 飛びこむ 水のをと」が並びます。最初の句は「夕かすみ」の「かすみ」が春のことばで、三つ目の句は「胡蝶のやどり哉」の「胡蝶」が季語となって春を表現しています。

最初の質問の大きなヒントが出てきました。「春の日」について編集した本に出てくるのだったら、この「ふる池や」は春の句なのでしょうか。

ここで、いくつか疑問点が出てきます。さっき蛙のいいところは鳴き声だという話をしました。ところが「ふる池や」の句では、蛙の自慢の鳴き声を詠んでいません。なぜ、蛙は鳴いていないのか。たぶん、今はまだ恋の季節にはなっていない。リリリリリリリー、という鳴き声は、求愛の鳴き声、春から夏の繁殖期にたてる鳴き声です。春だけれど、まだ春ではない。しかも、清流ではなくて、古池に飛び込んでいます。

想像してみてください――ポチャーン――かすかな水の音がした。小さなカジカガエル、よほど静かな場所でないと、飛び込む音は聞こえないはずです。なぜ、そんなに静かなのか。

ここには他の生き物が全くいない、活動していない。鳥の鳴き声もしないし、小動物の気配すらしない、もしかするとまだ雪が残っている季節なのかもしれません。この句、いろいろな解釈がされてきましたが、理解の仕方の一つの例として、いわゆる「啓蟄」を詠んだ句として説明することができます。2月末から3月にかけて、ずっと冬眠していた虫たちが土の中から目覚めて這い出してくる時期ですね。

つまりこの句は、寒い冬のさなかに、ポチャンという音が聞こえて、春の訪れに気付いた、その瞬間をつかまえた句として理解できるのです。他の生き物がいない「寂しい」冬の古池に、蛙の飛び込んだ水の音だけが響く。あ、今春が来たんだ、という「喜び」、これからいろんな生命が起き出す予感のする「楽しさ」、けれどまだ今は、みんな眠っているという「悲しみ」というのが、この句が表現しているものを、散文で精一杯説明した例になるでしょうか。

最初に出した問題の答えです。

第1問「ふる池や」句の季節は、「冬」であり、「春」である。冬から春への移り変わり、移ろいを見ているので、「4・冬」と「1・春」の二つを正解としましょう。

第2問「ふる池や」句の心情は、閉ざされた冬の「3・寂しさ」と誰もいない「4・悲しみ」の中に、春を見つけた「2・喜び」、これから来る季節を思う「1・楽しさ」の四つの心情の全てが正解と言えるでしょうか。

はっきりした言葉では表現しきれない、この貞享3年の「ふる池や」の句は、蕉風開眼の一句と呼ばれています。韻文分野で、俳諧の歴史は「ふる池や」句の以前と以後に分けられます。ただの言葉遊びのようなものだった俳諧の世界を、ガラッと変えたと称えられている一句です。

もうひとつ、「ふる池や」以後の世界、蕉風の世界観をよく表現したあの句を詠んでみたいと思います。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

夏らしい句、これも皆さんよくご存知の句ですね。この句を巡って「アブラゼミvsニイニイゼミ論争」という、研究史に残る聖戦が起きたことがあります。歌人の斎藤茂吉と漱石の弟子の小宮豊隆が、この句の中で鳴いているセミはなにゼミか、という論争をしました。斎藤茂吉は「生命力あふれるアブラゼミの声だ」と言いました。対して小宮は「ジーーーーと鳴かないと、岩に滲み入らないじゃないか」と言いました。この論争、斎藤茂吉がこの句の詠まれた山形県の立石寺に行って、実際に蝉の声を聞いてきたんです。その結果、「参りました。確かにニイニイゼミでした」と、自分の負けを認めたという顛末でした。それほど芭蕉ファンの情熱というのはすごいので、うかつなことは言えないのですが、私は今日、この句に三つ目の解釈、選択肢を提示したいと思います。

それはこの句の中で「蝉は鳴いていない」という選択肢です。手がかりのひとつとして、先ほど俳諧の成立には必ず文脈や背景があると言いました。この句にもやはり背景があります。それが『おくのほそ道』の中の一章としてこの句が詠まれているという背景です。『おくのほそ道』の立石寺の一節を読んでみましょう。

山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。(中略)佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

山深い岩山の上のお堂を訪ねて、芭蕉が詠んだ句がこの蝉の句ですが、本文の中には「物の音きこえず」「佳景寂寞」とあります。何の音もしない、なんて静かなんだ、と立石寺の静けさに繰り返し感じ入っている。蝉はどこにも出てきません。

かつ、立石寺に行った日付を見てください。元禄二年五月二十七日、旧暦なので今の季節の感覚に直すと6月末から7月上旬くらいです。6月末だったとしたら、このとき、梅雨は明けているでしょうか。まだ梅雨の最中に、蝉が鳴いていることがあるのでしょうか。

加えて、この立石寺の次の章は、有名な最上川の章で「五月雨を あつめて早し 最上川」が詠まれています。最上川が増水している、やはりまだ梅雨が明けてない疑惑があるんです。もちろん暦や気象、生き物の生態はずれますから、これだけでは証拠にはなりません。

私の提唱する第三の選択肢をもう少し正確に言うと、「蝉は鳴いていても、鳴いていなくても、どちらでもいい」ということです。実際に鳴いている必要は、特にないのだと思います。

なぜならこの章、立石寺の主役は「岩」ですから。大事なのは、蝉が「今」鳴いていることではなくて、蝉の声が何百年、年千年、「松柏年旧、土石老て苔滑に」、岩にしみ込んできたという、その長い歴史を『おくのほそ道』の中で松尾芭蕉は描こうとしているんです。

蝉は、七日くらいですぐに死んでしまいますが、この岩は、何千年、何万年もこの場所に佇み続けてきた。芭蕉が言いたかったのは、そこのところですよね。

この解釈は、私のオリジナルではありません。『おくのほそ道』の奥にはさらにもう一つ背景があって、それを踏まえてロジックで出した解です。例えば、雪舟の山水画を思い出してみてください。白と黒の濃淡で、切り立った岩山、立石寺のお堂が建っている岩々を描いた絵(「山寺図」・東京国立博物館所蔵)、あの世界観を、ことばを使って表現したものがこの芭蕉の句だとすると、とてもイメージしやすくなります。

さらにここに、漢詩の一節があります。王籍は中国の南北朝時代、芭蕉より千年以上前の詩の一節です。

蝉 噪ぎて 林 いよいよ静かなり
鳥 鳴きて 山 さらに幽かなり

芭蕉の句に似ているところがありますね。蝉が騒ぐ、蝉の声がするのに、いよいよ静かである。「ふる池や」の句は、水の音がするのに、なぜか静寂を感じる。さっき「ふる池や」句の質問で「寂しさ」と答えてくれた方の意見とも、どこか通底しています。

芭蕉が見ているもの、伝えようとしているものは、例えばこの漢詩の中で描いた世界であって、実際に古池の前で詠んでいる必要はないし、蝉はこの日鳴いていなくても、そんなに大きな問題ではないんです。

古典というのは、大体のものがこうした論理によって成立しています。ではなぜ、今の私達は、「古池の前に一人佇んでいる芭蕉」を想像するのでしょうか。

俳諧から俳句へ

現代の私たちが「蝉は鳴いているに決まっている」と思う。俳句、俳諧史の場合は、その契機になった瞬間を「ここです!」と指差し確認することができます。それが、皆さんもご存知の正岡子規の「俳句革新運動」、『ホトトギス』創刊、という一連の活動です。万葉から続いてきたことばのイメージ、伝統、故事、みんなが大事にしてきた、受け継がれてきたものを、ただただ繰り返すのではなくて、今、目の前にあるものを描く「写生・写実の提唱」、これはさまざまな分野で流行りました。特にそれを俳句の世界に取り込んだのが正岡子規でした。みんなで車座になってワイワイ創っていた俳諧・連歌の世界から、一人で静かに創る「俳句」に世界が変わっていく。慶応三年、江戸時代最後の年に生まれた正岡子規、あるいは親友の夏目漱石などは、文化面、精神面での日本の近代化を目指した代表的な二人です。彼らは新しい文化、時代の方向性を多くの人たちに確かに指し示して、その後、とても豊かな文化が生まれました。けれども、もしかすると同時に、この時に切り捨ててしまったもの、明治維新から百五十年以上経って、本格的にわからなくなってしまったものというのが、今となっては多分たくさんあるのだろうなと思います。

おわりに

会場の皆さんに、さっきご自分の解釈をイメージしていただきました。今、このように思っている方もいらっしゃると思います。

「ふる池や」の句、いい句だなと思っていた私の気持ち、解釈って、一体何?自分の感じ方がなにか間違っていると言われたような気がする。そんなに難しい知識、高い教養がないと、この句は味わってはいけないの?がっかり。

正直、そう思う方はいると思います。私も19歳くらいのときにそう思って、それ以来、その疑問をずっと考え続けてきました。古典文学研究という学問領域には、いろんな訓練が必要で、最初に、読む訓練、調べる訓練、整理する訓練をします。古典が踏まえている、さまざまな背景を虱潰しに明らかにしていかないと、何一つ確かなことが言えないからです。それら踏まえられている背景、例えば雪舟の山水画の世界、中国の自然を詠んだ古い漢詩、あるいは千利休の侘茶の価値観、禅宗の法話が問いかけるもの、老荘思想、これらは芭蕉の句にすべて通底していると言われています。漢詩とか漢籍というものは、子どもの頃から訓練を受けた人たちが読んでいて、内容も難しい。貴族や武士、僧侶の一部が、何年もかけて勉強してきたものです。侘茶というのも、もとは大名と豪商がつくった、ものすごく高級な文化です。そういう、とても小難しくて高尚な文化が目指したもの、それらのエッセンスを、芭蕉はこんな簡単な言葉で、ここまで簡潔な日本語で、小学生でもわかるような表現で示してみせた。なんなら、自分も今日からつくってみようかな、つくれるんじゃないかなと思えるくらいに、さらっと創ってみせる。だから、いつの時代もいろいろな人が、芭蕉の句の前で立ち止まってきた。松尾芭蕉がずっと特別扱いを受け続けてきた理由は、その辺りにあるのだろうと私は思っています。

この「蝉の声」の句、なんかしみじみするな、いい句な気がする。それって、皆さんにも「伝わっている」ということなのだと思います。千五百年前の中国の人が自然の中に感じたもの――時間とはなんだろう?死とは何か?生とは何か?――いつの時代も、人は皆、そんなことを考えながら生きてきました。この「ふる池や」「蝉の声」の十七文字は、そうした気持ちを共有し、媒介して、私たちにつなげるための架け橋として機能している、それが芭蕉の句なのだと思います。19歳から考え続けてきた、日本古典文学の解釈と共有知の関係について、いま、私はそんな答えを出しています。

話し手からもう一言

こうした解釈の問題は、いろいろな分野、素材で敷衍して考えることのできるテーマです。
私の専門分野は日本の近世文学ですが、ご自身の興味のある作品、作者、さまざまな文化現象について、より深く思考するきっかけになればと思います。