第25回 北大人文学カフェ

人は宗教でしあわせになるのか?
ウェルビーイング宗教社会学

ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好であること)とは、健康でしあわせな状態、もしくは、主観的幸福感の意味で使われます。近年、ウェルビーイングにかかわるさまざまな要因が医療、経済学、心理学、社会学において検討されています。

人がしあわせを感じるために何が必要なのでしょうか。学歴?いい仕事?よきパートナー?あるいは宗教的信仰でしょうか?

過去 5 年間の世界幸福度調査において日本は 50 位前後です。OECD 諸国において主観的健康認知と主観的幸福感は下位レベルです。高度な医療・教育・所得は必ずしもウェルビーイングの規定要因ではありません。では、何が?しあわせを感じさせる文化的装置は身近なところにあることを櫻井さんに話してもらいましょう。

今回のファシリテーター:
川口 暁弘
(北海道大学 大学院文学研究院 日本史学研究室 准教授)


イベント開催日
2019年11月09日
会場
紀伊國屋書店札幌本店1階インナーガーデン
話し手
櫻井 義秀(さくらい よしひで)
北海道大学大学院文学研究院
社会学研究室 教授

プロフィール

※プロフィールは人文学カフェ開催当時のものです。

はじめに

本日は、「宗教社会学って何ですか?」「しあわせ(ウェルビーイング)をどのように研究するのですか?」「宗教としあわせの関係」「自立した個人はしあわせになれないのですか?」「『終活』としあわせ」この5つについて私が質問し、櫻井先生にお話を伺っていきたいと思います。

今日のタイトルは、「人は宗教でしあわせになるのか」と。自宅で妻と話していた時に、このお話の結論は何だと聞かれたので、「しあわせになる宗教もあるし、しあわせになる人もいる。その逆に、幸せになれなかったという人が多い宗教もあるよ」と言うと、それで話になるのか?と言われたのですけれど、今日はもうちょっと話をふくらませていきたいと考えております。

宗教社会学って何ですか?

「宗教社会学って何ですか?」というと、堅苦しく言うと、宗教というのは社会の枠の中にありますが、どういう枠の中に収まっているのか、その枠の中から宗教を見ていく学問なんですね。

まずは、私がどんな宗教社会学をやってきたのかというところからお話しします。私はカルトの研究を長らくやってきました。それから、さまざまな宗教文化が海外からもち込まれて、日本がどういったふうに変わっていくのかということを研究しています。また、私は元々、タイの上座部仏教を研究していましたので、日本とタイの仏教は、どこがどう違うのかを研究しています。宗教というのは、それだけ見ていてもよくわからないんですよ。比較するとよくわかります。また、近年、人口減少社会となり家族の仕組みも変わってきています。日本が大きな転換期を迎えている中、寺や神社がどのように変わってきているかということも私の研究テーマです。
今日は、一番新しい研究テーマである「しあわせの宗教社会学」「宗教とウェルビーイング」についてお話しいたします。

しあわせ(ウェルビーイング)をどのように研究するのですか?

私が考える社会科学で扱うしあわせというのは、それなりに住むところがあって、温かい人間関係に恵まれて、健康でいられて、そういうしあわせの最低条件、これをウェルビーイングと言っています。

全国調査によると、健康状態とその人の主観的幸福感というのは関連があります。健康状態が非常によい人は、相対的にしあわせだと答える人の割合が高く、健康状態が悪い人は、自分は相対的に不幸せだと思う人が多いです。また、社会的孤立と幸福感という点では、人は必要とされていると感じると、その人の主観的な幸福感は高まるということがわかっています。

平成20年度版国民生活白書からのデータを見てみます。豊かになればしあわせになれるというのは、高度経済成長を経て日本人の基本的な発想だったわけです。ところが1980年代の半ば頃から、一人あたりのGDP、豊かさはどんどんどんどん上がってきているにもかかわらず、生活満足度は下がってきています。これは他の先進国でも同じ傾向です。ある程度まで経済的な条件が整えば、しあわせ度感というのは伸びていきますが、ある時点から上がらないです。では、豊かさにプラスして何があれば私たちはしあわせになれるのか、ということを今考えています。

宗教としあわせの関係

主観的な要素がしあわせにとって非常に大事だというお話でしたが、そのことと宗教はどういった関係にあるんでしょうか。

宗教団体に入るとその人のしあわせ感は上がるのか、ということに非常に関心を持っていました。実際に聞いてみると、多くの方はしあわせだと言う。だから宗教は人をしあわせにすると信じられてきました。しかし、実はここには、社会学的に言うとサンプリングのバイアスというのがあります。よく考えると、しあわせにならなかった人はみんな宗教団体を抜けちゃっています。そこで、宗教団体に入っている方、入っていない方、自分で信仰を持っている人、持っていない人をランダムに集めた1200人規模の全国調査を行いました。

日本の場合、宗教団体に所属していることと、所属していないことで、しあわせ度はほとんど違いがありません。アメリカやヨーロッパの場合、主としてキリスト教会に通っている人はしあわせ度が高い。ところが、日本では、仏教、神道、キリスト教、あまり差が出ません。このことを宗教団体に入っている方達にお話しした時に、非常にがっかりされました。そこで、私も少し考えて、もう一つ別の「宗教的な心は大切だと思いますか」という質問を加えました。そうしますと、宗教団体に所属していない人は、「宗教的な心は大切だ」と思う、思わないに関わらず、平均値がだいたい似通っています。ところが、宗教団体に所属している人の場合は、「宗教的な心は大切だ」と思うという人の幸福度はぐんと上がり、一方、所属しているにも関わらず宗教的な心は大切だと思わないという人の幸福感はぐっと下がっています。

「現在の私があるのは先祖のおかけであると思いますか」という別の質問に対し、「そう思わない」「あまり思わない」という人の幸福感というのはあまり高くない。「ややそう思う」「そう思う」と答えた人の幸福感というのは高くなっています。ここで、先祖を拝んだから、しあわせ感が高くなっているというのは、宗教的な説明です。社会学的な説明は、先祖との関係で自分を捉えているということは、いわば自分は孤立していないということです。自分が今ここにいるのは、他の人との関係の中でいるんだということを、いわば先祖を拝んだり、墓参りをしたりして確認することによって、孤立感が潜在的に弱められているというのが、社会学的な説明です。

日本では、約3割の人しか宗教心があると答えません。にもかかわらず、先祖をまつる、墓参り、初詣など、宗教的な儀礼は行っています。これを慣習的行為だ、宗教じゃないという場合もありますが、しかしその中にいわば宗教的な要素というのは含まれていると思います。日本の場合、宗教的な心が大切と思うか、思わないかについては、欧米で言うところの信仰心に代替できるんじゃないかという知見が出てきていまして、宗教的な心が大切だと思う人の方が、主観的幸福感が高くなっているということであります。

ウェルビーイングという観点で、自分のしあわせな心のうちが何によって支えられているのかというお話をしました。健康、社会保障、福祉という客観的なものは大事ですが、それだけじゃないというのが私の考えるところです。価値意識、その人の人生観、その人の主観的な心持ち、根幹にかなり関わっているのではないか。そういう意味で、価値意識と幸福の関係を研究していきたいと思っています。

自立した個人はしあわせになれないのですか?

家族の中に自分が収まっているとしあわせを感じる、あるいは、宗教団体などの集団の中にいるとしあわせを感じることが多くなるということですけれども。近代の個人主義は、ひとりでいることが良いような価値観だと思いますが、これではしあわせになれないということでしょうか。

私はそういうふうに思っていません。今は個人の自立性、人に頼らなくてもやれるとか、そういうところがちょっと強調されすぎているのではないかという気がします。自立した個人というのは人生の中のある局面において、限定されると思います。自立的な個人ベースだけで法制度や社会をつくっていくと、そこからうまくやれない人が出てきます。自立した個人ではなくて、もうちょっといろんな人に支えられた個人、いわば関係論的な個人を考えた方がよいと思います。関係論的な個人、あるいは縁の中で、人や物を捉える発想というのは、仏教に限らず、いろんな宗教的な文化の中で育まれてきた発想なので、これを私はもうちょっと大事にした方がいいと思っています。

「終活」としあわせ

最近話題になっている、人生の締めくくりをどうつけていくかという話題です。先ほどの、家族とのつながりですとか、あるいは地域の団体とのつながりの中で終活というのはどう考えたらいいでしょうか。

終活は、あまりやり過ぎるのはよくないという気がしています。誰かに何か仕事を残しておくといいますか、それって結構大事じゃないかと思います。例えば、子どもさんに迷惑かけないように全部自分で始末しておくとかすると、次の世代の人たちは、親世代や前の世代の人たちに、返せるものがなくなるのではないかなという気がするんですよ。ある程度のものは残しておかれて、それを整理するとか始末する中で、親のことや亡き人のことを考える、そういう時間や機会が大事なのだと私は思います。終活というのは、非常に現代的な個人化や孤立化を象徴しているように思えまして。終活は、誰のため、何のためにやるのか、あまりやり過ぎると結局、人はどんどん孤立していって、人とのつながりを確認する機会を逃してしまうのではないでしょうか。

まとめ

現在、アクティブエイジングが大事だ、ということが言われています。アクティブエイジングというのは、60歳または65歳で定年退職した後に、死の直前までの20数年間をどうやって過ごすのかということです。次の世代にも配慮しつつ、同世代とも協力しながら生きていくのが大事だと思います。それには、3つの要素が必要だと思っています。ひとつは、役割と生きがいを確認するための若干の働き場が必要です。二つ目は、居場所ですね。家族だけではなく、地域の中や趣味の友達との出会いでも何でもいいと思います。もう一つは、非日常的な空間と時間を自分の中に持つという意味での遊びです。宗教と遊びは、実は非常につながっております。非日常的な時間と空間を味わう、その中で仲間をつくる、そしてもう一回、日常的な空間に戻る際にエネルギーをもらう、充電するというところがあります。これらをバランスよくつくっていくというのが大事で、今は働く、居るというところをみなさん重点的に考えておられますが、この遊ぶ要素の中で、単に趣味だけではなくて、宗教文化を見直されたらよろしいのではないかな、というのが私の考えであります。

話し手からもう一言

日本は世界の中でも宗教心や価値観に重きを置かない、かなりかわった国です。 「人に迷惑をかけない」というのがよく知られた世俗的な道徳ですし、「自分らしく生きる」「子供にはやりたい事をやらせてあげたい」というのが現代的な価値観でしょう。社会的要請に応えたバージョンとしては、「グローバルに活躍する」「フロンティアスピリットを持つ」などというものもあるかもしれませんが、 個人の自律性/自立性というのが過度に重視されています。

こうした発想は、良くも悪くも近代主義的で、戦後の拡大成長期における時代意識を引きずっているのだなと思います。 社会全体が底上げされた時代は多くの人が夢を見ることができました。しかし、定常的な経済の時代、グローバルな資本主義に支配された現代社会においては、上げ潮ムードが特定の地域や特定の時代、特定の人々に限られた現象であったことに気づきつつあります。

「多少の迷惑をかけあえるような関係」 「やりたいことがなくても暮らせる平凡な生活」「楽しい気分になれて誰かと共有できる環境」こういったありふれた日常を実は多くの人が求めているのではないかと思います。グローバルな経済が人を幸せにするとまともに信じてる人はどのくらいいるでしょうか。医療の発達により長寿社会になりましたが、高齢者の幸福感は増えてるでしょうか。若者たちは、必要以上に不安や不満を抱えているのではないでしょうか。マスメディアやパーソナルメディアは知的情報を提供もしますが、差別や攻撃性という負の感情を増幅もします。

私たちの社会が目標にすべきことは、多くの人が少しだけ幸せを感じられる社会だと思います。 高邁な宗教思想や特異な儀礼、あるいは集団的熱狂や運動に駆り立てられる人だけを見て、宗教とはこういうものとみなす人が多いのですが、宗教の根底には慣習化された知恵や生活様式があります。そうした知恵や生活様式を旧慣として捨て去るには惜しい、見直すべきものがあるのではないかと私は考えています。

なおご関心のある方は、私の新著をご覧ください。

これからの仏教 葬儀レス社会
—人生百年の生老病死
櫻井 義秀 著
出版年月日 2020年7月20日
ISBN 9784908027888

書香の森 出版社のページ

(2020年8月 記)