地域文化における記録と記憶とめぐって
開催日時:10月8日(土)13時〜15時
開催場所:北海道大学 人文・社会科学総合教育研究棟W202教室 ※オンライン配信併用
講師: 田中 千秋(せんだいメディアテーク)
2001年にオープンしたせんだいメディアテークは、20年以上にわたるこれまでの活動のなかで、ヒト・モノ・コトの新しい関係を模索してきました。確かに同館は狭義のミュージアムではありませんが、しかし、既存のミュージアムに対して刺激的な問いを投げかけ続けてくれる存在であったように思います。今回のレクチャーでは、このせんだいメディアテークのさまざまな実践に最前線で携わってきた田中千秋氏をお迎えして、地域文化を織り上げる記録と記憶について問い直すことを目指しました。
せんだいメディアテークでこれまでに行われてきた活動は多岐にわたりますが、今回は特に記録と記憶という講義のテーマに沿って、二つの枠組みを軸に紹介していただきました。
第一の枠組みは、「メディアスタディーズ」と呼ばれるプロジェクト群です。ここに含まれる各プロジェクトは、館の側が発案し、市民に向けて提案したものではありません。何かを記録したい、何かについて調べて残したい、同じ関心をもつ人と交流したい、といった意思をもった市民がプロジェクト案を提起し、その実現に向けてせんだいメディアテークのスタッフがサポートしていくのだそうです。田中氏が例として挙げてくださったのは、たとえば、「みやぎ民話の会」が発案した「民話 声の図書館」というプロジェクトです。同団体はこれまでカセットテープのかたちで民話の語りを記録してきたのですが、その民話データをデジタル化し、CDとして残すことを目指して活動を開始したといいます。ところが、せんだいメディアテークを舞台として活動していくなかで、映像作家や画家等のアーティストとつながることで、新たな映像作品を生み出したり、イベントや展示を実現させたりと、思いもよらぬ方向へプロジェクトが転がっていったそうです。あるいは、NPO法人20世紀アーカイブ仙台が主導する「どこコレ?―おしえてください昭和のセンダイ」というプロジェクトでは、昔の写真に対してさまざまな人が情報を付け足していくという活動が行われていきました。そこには、撮影された場所や日時を特定するうえで有益な情報のみならず、個人的なエピソードや不確かな記憶も次々と付加されていきます。写真資料を主軸に据えた歴史研究のようでもありながら、同時に、人びとのあいだのコミュニケーションでもあるこの活動を通じて、私的な記憶が公的な情報へと接続されていったようです。
田中氏は、こうした活動で扱われる対象は必ずしも社会的に価値があると認められてきたものではない、と言います。古い民話の記録や、脈絡のない個人的な記憶の断片…。それらは、そのままであれば確かに、公的な意義を持たないのかもしれません。しかし、そうしたものに価値があると考えてきた人びとの地道な活動にこそ、地域の文化的土壌を豊かにする文化実践があるのだと田中氏は説きます。それらは、田中氏が言うように、コミュニティをテーマとし、コミュニティを巻き込みながら生み出されていく「コミュニティ・アーカイブ」の実践にほかならないと言えるでしょう。
紹介してくださった第二の枠組みは、「3がつ11にちをわすれないためにセンター(わすれン!)」の活動です。これは、東日本大震災とその復旧・復興のプロセスを記録、発信、表現していくためのプラットフォームだということでした。特徴的であるのは、記録そのものではなく、記録する人(参加者)を募集するという点だと田中氏は教えてくれました。つまり、生涯学習施設であるせんだいメディアテークにとっては、結果として集積されていく記録だけが目的なのではなく、記録のプロセスが学びのプロセスになっていくことも重要だということでした。たとえば、自分たちの地域の記録を残したいと自主的に集まった市民が撮影や編集の技術を学びながら映像作品を次々と生み出していくというプロジェクトがありました。あるいは、震災後に残された住宅の建築基礎の写真集をつくろうとする試みや、復興のために変貌していく場所の写真を定点観測的に記録するという試みも、示唆的でした。また、震災翌日の朝食について写真をきっかけとしながら語りあっていくプロジェクト「3月12日 はじまりのごはん」では、東日本大震災の記憶に、全国各地で起こるさまざまな災害の記憶がつながっていくこともあったのだといいます。写真をいわばひとつの依り代にして、記憶や共感の輪を育てていくような活動だと言えるでしょうか。直接的に語ったり、語り合ったりすることが難しい被災の個人的な記憶を、アーカイブとして共有することの意義を切実に感じることができるプロジェクトでした。
歴史的にみればミュージアムは、公的に残すべきモノを選定したり、特定の価値観にお墨付きを与えたりしてきた場所です。だからミュージアムに集められてきたコレクションは、多くの場合、何かを代表する「典型」だったり、特別に優れた「特例」だったりしてきたのだと思います。しかしその一方で、典型でも特例でもない、もっとささやかな記録や記憶がコミュニティのためには重要であることもあるはずです。田中氏の言葉を借りるならば、それはたとえば、報道からはこぼれ落ちるような日々の生活の記録や、放置しておけば失われていく記憶や想いなのかもしれません。これとどう向きあっていくのかは、ミュージアムの公共性がどのような類の公共性なのかを考えるうえでも避けて通ることが出来ない課題であるでしょう。
今村 信隆(北海道大学文学研究院准教授)