企画展示小川原 《枯れ木》《街》

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書香の森の企画展示が更新されました。今回は、文学研究科所蔵の小川原 脩の作品です。

展示作品

(2015年1月16日 小川原 將 氏より寄贈)

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枯れ木(キャンバス、油彩、1989年、73.0×117.0㎝ 文学研究科所蔵)

一本の木とそれへ飛びよる鳥、後方へ並ぶ家々を描いた作品である。

中央の木は枝の元から剪定されているが、その切り口の近くから伸びるいくつもの細い枝と白く精気のある幹は、枯れ木という題でありながらたくましい生命力を感じさせる。背景や幹を取り巻くグレーの配色は、画面に渦のような空気の流れを感じさせ、幹に堂々とした生命力を与えている。

この幹へ向かって羽ばたく白い鳥も、木が生命力を持った存在としての印象を強くしている。

枯れ木の奥には家々が立ち並び、その姿は簡潔な形で表現されている。

画面全体での色の塗り重ねは、キャンバス地が見えるほど薄く、背景に淡く塗られた赤が画面全体に明るく温かみのある印象を与えている。

本作は画面中央下と画面右下の二か所に「shu Ogawara-89」とサインがある。小川原 脩は同年の1989年の第44回全道展に《樹》を出品しており、また1990年には枝を青々とした葉をつけた大木とそれにとまる沢山の鳥を描いた《樹》という作品を制作している。

なお、この作品は、2014年秋に開催された「美術の北大展」を機に、小川原脩のご子息小川原將氏より、文学研究科に寄贈された5点のうち1点である。

(文学部4年 町田 義敦)

(2015年1月16日 小川原 將 氏より寄贈)

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街(キャンバス、油彩、1980年、46.0×65.5cm 文学研究科所蔵)

街中を引かれていく水牛を描いた作品である。

画面手前に描かれている水牛は、腰を落として後ろ足を強く踏ん張り、縄によって引かれていくことに強く抵抗している。画面左の木の下では人が一人座り込んで、その水牛を眺めている。水牛を引く縄と、それに抵抗する水牛によって画面に水平方向への強い緊張が生まれているが、背後の木々とその傍らに座る人によってその緊張が和らぎ、画面に均衡が作られている。水牛や人物、背景の先に立ち並ぶ家は簡潔な形で表現されているが、姿を明確に捉えることで水牛の力強さを感じることができる。

暗い赤によって強調された木々の緑や中景に広がる黄色が画面全体に明るい印象と、濃密な空気感を与えている。

画面左下には「ShuOgahara -80 」とサインが記されている。小川原 脩は1979年6月に中国の桂林へ旅行しており、本作はこの地での取材をもとに制作されたものだと考えられる。

小川原 脩は1979年以降、何度も桂林や広州、チベットやインドに赴き、それを題材にした作品制作を行っている。水牛はこの時期の作品に頻繁に扱われたモティーフで、北海道立近代美術館にも、街中を歩く二頭の水牛を描いた同名の作品、《街》(1980)が所蔵されている。

なお、この作品は、2014年秋に開催された「美術の北大展」を機に、小川原 脩のご子息小川原 將氏より、文学研究科に寄贈された5点のうち1点である。

(文学部4年 町田 義敦)

小川原 脩(1911~2002)

北海道虻田郡倶知安村(現在の倶知安町)生まれ。中学時代から油絵を描き始め、1930年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学。卒業後は東京でシュルレアリスム運動への参加をはじめとして日本の前衛芸術運動の中心を担い、積極的に活動する。

しかし太平洋戦争開戦後、前衛芸術は強い圧力を受け、小川原 脩自身も1940年に召集を受け、また後に従軍画家という形で戦地に赴き、戦争記録画を制作した。

終戦後は戦争記録画制作の責任を問われ、東京には戻らず故郷の倶知安の制作拠点として活動を再開する。1945年より木田金次郎、間宮勇と共に後志美術協会を結成。また全道美術協会(全道展)の創立に参加した。1979年以降はたびたび中国、チベット、インドなどに旅行し、新たな作風を生み出している。

略年譜

1911年 1月21日、北海道虻田郡倶知安村に生まれる。
1917年 倶知安第三尋常高等小学校入学。
1923年 北海道庁立倶知安中学校に入学。
1924年 教師に反抗したために二週間の停学を受ける。この時に友人から油絵具をもらったことから油彩を始める。
1928年 仲間と結成した絵画グループ「緑会」の第一回展覧会を開催。
1930年 東京美術学校西洋画科に入学。長原 孝太郎の指導を受ける。倶知安で初個展を開催。
1933年 東光会第一回展に《雪の海》が入選。第14回帝展に《納屋》が入選。
1936年 外山 卯三郎(北大、黒百合会出身)の紹介で日本前衛美術の牽引者、福沢 一郎と面会。その後「エコール・ド・東京」を初めとする前衛美術グループに参加。
1939年 美術文化協会の結成に参加。銀座・資生堂ギャラリーで個展を開催。
1943年 決戦美術展で《バタン上空に於ける小川部隊の記録》を出品。陸軍大臣賞を受賞。
1945年 8月上旬倶知安町に疎開、終戦を迎える。後志美術協会を結成。全道美術協会の創立に参加。以後ほぼ毎年出品を行う。
1949年 北海道学芸大学(現・北海道教育大学)で非常勤講師を務める。
1963年 北海道大学工学部で1983年までの間、非常勤講師を務める。
1975年 北海道文化賞受賞。
1979年 中国南部の広西・チワン族自治区の桂林へ旅行。以後、中国やチベット、インドを歴訪する。
1981年 倶知安町特別功労賞受賞(芸術文化)。
1989年 文部大臣褒章(地域文化功労)、北海道新聞文化賞(社会文化)受賞。
1994年 北海道開発功労賞受賞、『小川原 脩画集』出版。
1999年 「小川原 脩記念美術館」開館。
2002年 8月29日、永眠。享年91歳。