内容紹介
2022年に「博物館法」が約70年ぶりに大きく改正され、2023年4月1日から新しい制度に移行します。ちょうどこのタイミングで、放送大学では新しい『博物館経営論』の授業がはじまります。テキストの各章で扱っているテーマやデータが、新制度以降の博物館のあり方や将来像を考える際、気づきや手掛かりになることを願っています。
著者からのコメント
佐々木 亨
このテキストを編集・発行した2022年度は、これまでやってみたいとずっと思っていても、なかなか実現しなかった、ミュージアム来館者に対するさまざまなリサーチを実施することができた1年でした。そのうちの1つをご紹介します。
獲得できたサンプルはわずか55件でしたが、「行動調査」を広島県立美術館で実施しました。この調査は、調査対象者からご了解をいただいた上で、展示室内の動線や対話などの行動を約10m離れて観察し、記録させてもらい、観覧後は20分ぐらいインタビューをして、さらに帰宅後1ヶ月の時点で、この間の余暇の過ごし方やミュージアムに関するさらなる経験などをアンケートに書いて郵送してもらうという3つの調査をつなげたものでした。展示室の出口で書く単なるアンケート調査ではわからない、いま・ここに・自分がいる必然をみなさんが持っているということがよくわかりました。
「子どもが独立して、どう生活してよいかわからなくなって美術館に訪れた母」
「年老いた母との再会場所として美術館を選んだ帰省中の中年の息子」
「小学校入学前の愛娘のミュージアム・デビューの日として美術館に来た家族」
など、みなさんが固有の物語を持っていました。
このリサーチで気づいたことは、「美術館に行きたい」という欲求の裏に、調査されて言語化するまでははっきり意識していなかった「心に空いた穴を埋めたい」、「母に安らいだ気分を味わってもらいたい」、「娘に美術館を人生のたいせつな場にしてもらいたい」など、「インサイト」と呼ばれる無意識の心理があるということです。加えて、調査対象者はこの美術館に限らず、かつてミュージアムという場を訪れた体験があり、過去のその時間を忘れていないと想像できます。そして、その体験がいまという時間を豊かにすることを手伝っています。さらに、これからの自分とともに、他者とも同じ時間をシェアして、未来という時間を豊かにしようとしているのではないかと感じました。
このテキストを通して、ミュージアムと来館者・地域住民との多様な関係性を知っていただくとともに、ミュージアム発の幸福論を考えるきっかけにしていただければ有り難いです。
今村 信隆
博物館は今日、大きな転換の只中にあると言われている。ただ、それは何も、博物館の世界だけが変わりつつあるということではないだろう。というよりもむしろ、社会全体が目まぐるしく変化していて、博物館もそのうねりのなかにあるのである。この10年、20年ほどの期間を振り返ってみても、当たり前だと信じて疑うことがなかった日常の前提が覆されたり、従来の常識が通用しない事態が生じたりすることが少なくなかったに違いない。
ところで、こうして変化し続ける時代のなかで博物館が重要であると考えられるのは、博物館が「価値」にかかわる仕組みだからである。歴史を振り返ってみれば、ヨーロッパで生まれて世界中にひろまった近代的な博物館は、各々の社会がよいと認めるものを見定め、収集し、ひろく一般に向けて展示する場として成長してきた。価値を公認すること、そしてその価値を人びとのあいだで共有できるように明示することが、博物館の大切な役割であった。だからこそ、日常の前提がゆらぎ、従来の常識が脅かされ、多様な価値観が衝突し合うことも少なくない現代の社会のなかで、博物館の役割がいっそう厳しく問われているのである。価値の伝達や共有に長らく携わってきた博物館という古いメディアの可能性が、いま、改めて試されているのだとも言えようか。
学芸員資格科目のテキストとして編まれた今回の『博物館経営論』も、もちろん初学者のための教科書ではあるのだが、同時に、博物館がもたらしうる多様な価値を再考する一冊でもあると思う。博物館はもはや、博物館であるという理由だけで、人びとから無条件に支えてもらえる機関ではなくなった。昨今では、自分たちが提供する価値を自覚的に振り返り、戦略的に練り上げることが、博物館の経営にも求められるようになっている。また、現代の博物館は、既に価値が定まったモノを見せるだけの、権威主義的な機関でもない。博物館は、そうではなくて、人びとが価値観を交換しあい、共創しあう場になりつつある。
そのような現代的課題に直面する博物館の価値を、様々な立場から多角的に掘り下げてみることが、本書の密かな課題であったように個人的には感じている。だから博物館の価値を信じる筆者たちの隠し切れない博物館愛が、本書の端々に、あるいは教科書としての体裁の奥に、にじみ出てしまっているかもしれない。
外部リンク
〔出版元〕放送大学教育振興会の紹介ページ