2023.03.31

空海の字書

人文情報学から見た篆隷万象名義
著者名:
李 媛(著)
文学院・文学研究院教員:

内容紹介

本書は、空海の字書―日本現存最古の漢字字書である高山寺本『篆隷万象名義』を基礎資料として、玉篇系字書全般を視野に入れ、大別して情報学、書物学、文字学の三つの視点から本文解読へとアプローチする古辞書研究である。これら三つの視点から総合的に研究することで、いくつかの新しい知見を提示することができた。また難字の多い古写本を電子テキスト化した点と、日中の本文研究の成果を統合して論じた点に、本研究の特長がある。

著者からのコメント

本書では『篆隷万象名義』の読み方を、漢音で読む慣例にしたがって「てんれいばんしょうめいぎ」とする(貞苅伊徳「日本の字典:『篆隷万象名義』『新撰字鏡』『類聚名義抄』」『漢字講座 第2巻(漢字研究の歩み)』明治書院、1989)。このほか、「てんれいばんしょうみょうぎ」と「名」の字を呉音に即した読み方もしばしば行われている。空海は唐の長安で求法し、学問を修めた。さらに、平安初期に仏教界への漢音奨励が及んで、僧侶に対して漢音の学習を推奨するという朝廷の動きがあった。桓武天皇(781-806)が即位した後、漢音を正音として使用することを奨励したが、これは唐の長安と洛陽地方の音が標準音として用いることで、当時乱れていた漢字の音を正そうとされたものだと言われている。空海の著作物を漢音読みにするのは、空海の学問のバックグラウンドが隋唐の学問に繋がること、ならびに平安初期の時代背景を意識するところに拠る。

日本では奈良時代から、古文献が良質な古写本として多く伝承された。筆者がこれまで研究対象としてきた日本古辞書も国語学・中国語学及び仏教学における重要資料であるが、そのほとんどが写本として伝わったものである。写本の常として、異体字が多く存し、誤写も避けられないため、解読は容易ではなく、さらに電子化も遅れているのが現状である。筆者が大学院学生として所属していた北海道大学大学院文学研究科言語情報講座(現言語科学講座)池田証壽研究室では「平安時代漢字字書総合データベース」(Integrated Database of Hanzi Dictionaries in Early Japan , 略称HDIC)を構築するプロジェクトを推進していた。HDICに収録する日本古辞書は『篆隷万象名義』(高山寺本)、『新撰字鏡』(天治本)、原撰本『類聚名義抄』(図書寮本)、改編本『類聚名義抄』(観智院本)の四種である。これらは部首分類体という共通点があるため、漢字字書としてこれらを総合したデータベースが構築されることになった。これらはすべて古写本であり、判読が難しく、かつ難字が非常に多いが、池田研究室はあえて難題に挑戦し続けてきた。筆者は主としてHDICの一部をなすものである「篆隷万象名義データベース」(Kosanjibon Tenrei Bansho Meigi, 略称KTB)を担当し、それに関連して玉篇系字書全般のデータ化作業にも参加してきた。HDICの一環として、2016年9月1日に、高山寺本篆隷万象名義データベースの全文テキストが公開された。これは、日本古辞書では初めての全文電子テキスト化とその公開となった。

平安初期に空海が唐土から、多くの経典を日本に将来した。帰朝後空海は、南北朝梁の顧野王の原本『玉篇』に依拠し、『篆隷万象名義』の編纂にとりかかった。このように日本に伝わった原本『玉篇』残巻と『篆隷万象名義』は、後に、駐日公使の随員として東京に渡った清末の学者である楊守敬によって、その存在と文献の価値が中国に知らしめられた。このように、『玉篇』を中心に、漢字に関わる日中の辞書の交流は絶えず継続し、その歴史は千年に及んでいる。千年前に編纂された空海の字書を開き、そこに記録された一つ一つの漢字が語る由緒に耳を傾けたい。

ISBN: 9784832968899
発行日: 2023.03.31
体裁: A5判・332ページ
定価: 本体価格18,000円+税
出版社: 北海道大学出版会
本文言語: 日本語

〈主要目次紹介〉

  • はじめに
  • 第1部 多漢字古写本のデジタル化
    第1章 データベースの構築による情報処理学的な研究方法
    第2章 篆隷万象名義の全文テキストと公開システム
  • 第2部 書物学から写本へのアプローチ
    第3章 原本調査からみた篆隷万象名義における文字訂正の問題
    第4章 篆隷万象名義の近世写本
  • 第3部 デジタル化による写本の本文研究
    第5章 埋字と脱字
    第6章 字体と字種との区別から見た重出字
    第7章 掲出字の文字同定
    第8章 篆隷万象名義における漢文節の意味注記
    第9章 大乗理趣六波羅蜜経釈文所引玉篇逸文による本文校訂の研究
  • おわりに